笠戸丸

「ブラジル移民について」 吉永拓哉

今をさかのぼることちょうど100年前、1908年に日本からのブラジル移住がはじまりました。移民船「笠戸丸」に781人の日本移民を乗せ、神戸港から約2ヶ月かけて6月18日にサントス港へ到着したのが最初です。

日本移民たちは契約農として、サンパウロ州奥地のコーヒー園に配耕されました。当時、日本移民たちは、「コーヒーの木は、金の成る木」だと信じていました。というのは、彼らが日本にいたころに、日本政府が「ブラジルのコーヒー園で働けば、わずか2年で大金を得ることができる」と宣伝していたからです。貧しい日本人たちは、政府の宣伝を信じて船に乗り込みました。

ところが、いざブラジルのコーヒー園に着くと、そこは日本政府が公言していた世界とはかけはなれた現実が待ち受けていたのです。
1888年に黒人奴隷制度を廃止したブラジル政府は、その労働力を補うために日本移民を受け入れたのでした。
当時の日本移民は、かつて黒人奴隷が住んでいた粗末な奴隷小屋に押し込められ、過酷な労働を強いられたのです。
まだ軍手などが普及していなかった時代、素手でコーヒーの実をこすぎ採ると、手が燃えるように熱く、激痛が走ったといいます。
また、祖国の地を再び踏むことなく風土病で倒れる移民が続出しました。
一方、報酬のほうはというと微々たるもので、借金のほうが膨らみ、日本へと帰る費用すら稼ぐことができませんでした。

日本移民たちはついに脱耕することを決意しました。
パトロン(農園主)たちの追っ手を逃れるためにジャングルの中を彷徨いました。マラリアにかかり、多くの日本移民がバタバタと死んでいきました。それでも彼らは自らの手でジャングルを切り拓き、サンパウロ州奥地やパラナ州にコロニア(日本人移住地)を作ったのです。
ここで生まれた日本人の子供(2世)は、寺小屋のような日本人学校で日本の教育を受けました。コロニアでは野菜、コーヒー、綿などを作って生活していました。もう少しの辛抱だ、もう少し金がたまれば日本へ帰れると慰めあいながら、望郷の念を抱きつつ、懸命に働いたのです。

しかし、その夢はもろくも崩れ去りました。
太平洋戦争の勃発です。

連合国側に付いたブラジル政府は日本移民に対し、日本語の使用禁止、日本語の書物の押収、財産没収、日本語学校および日本人会の閉鎖などを発令しました。規則を破った日本移民は、容赦なく牢獄に収容されました。
やがて終戦を迎えましたが、ここでブラジル日本移民史に残る大事件が起こるのです。

「勝ち負け抗争」と言って、日本が勝ったと信じる「勝ち組」と、負けたと認識する「負け組」が口論になり、ついには「勝ち組」の一部が「負け組」を襲撃し、多数の「負け組」が殺されました。
当時の日本移民はポルトガル語が分からず、日本語新聞は廃刊となっていたので、日本の情報をまったく得ることができませんでした。
祖国を想い、日本だけが心の拠り所であった彼らは「絶対に日本が負けるはずがない」と信じこんだのです。
遠い海外で暮らす、当時の日本移民たちの悲劇でした。

戦後しばらく経ってブラジル政府は、戦後の日本移民を受け入れることを決めました。日本移民は、戦前戦後を通じて約30万人がブラジルへと渡ったのです。
戦後は、日本語新聞も再開され(このときにサンパウロ新聞が創刊されました)、各地に日本人会が作られました。
また、移民の多くは奥地からサンパウロ市内へと移り住み、2世の時代になると医者や大学教授、弁護士になるものも多く、商工業の分野でも活躍するようになりました。

笠戸丸のブラジル到着から100年が経ちました。
現在、ブラジルには約160万の日系人がいるといわれています。そのうち、日本国籍保有者(1世)は、約7万人です。 今では日系6世が存在します。
スシ、サシミー、ジュドー、カラテー、ヤキソーバ、ショウユ、ミソシール、イケバーナ、大抵のブラジル人なら理解できる日本語です。 日本移民が苦心の末、ブラジルの大地に日本文化を定着させました。
ブラジルに「ジャポネス・ガランチード」(日本人ならお墨付き)ということわざができるほど、日本移民はブラジル人から絶大な信頼をうけるようになったのです。

海の向こうにもう一つの日本がある。日本にいる日本人にもぜひ知ってもらいたいブラジル日本移民の歴史です。(おわり)

「そんなことがあったんだ」
ショックだった。何にも知らなかった。